大東京高速度交通公団団章
大東京高速度交通公団団章

Ⅰ:地下鉄道と高速鉄道は直通と路線計画の件で対立していたが、1935年に鉄道省の仲裁で直通協定を結ぶこととなった。ルートは現在の大東京銀座線と同じものであった。同時期東京市は高速鉄道が3両程度の規格で建設を計画していることに猛反発していた。理由は3両程度では中央通りの輸送量を裁ききれないとしていること、30年後に高速鉄道から東京市が引き継ぐ際(*1)に改修費を市が負担せねばないことであった。また、高速鉄道内においても免許の通りに東京駅へ路線を伸ばすべしとする一派もあり直通協定について不満を持ったものは地下鉄道の早川以外にも多かったとされている。

 

Ⅱ:協定以降も両社は対立が激化し、東京市電の混雑区間には新路線は引かれず、規格も小さく、譲渡したことを東京市電気局の幹部は後悔したと言われている。しかも東京の人口はさらに増加し高速鉄道の建設は重要な課題であった。そこで市高官は公営主義を訴えるべく遂に鉄道省へ、特に欧米へ運輸研究のため渡った経験のある佐藤栄作に接近した。譲渡による混乱を招いた市に対し国は不信感を隠すことは無かったが、私鉄2社の争いが激化するよりも幾分か"マシ"と考えられた。ただし東京市は全面的に地下鉄を掌握できた訳ではなかった。国は地下鉄のすべてを任すといずれ譲渡事件のような混乱を引き起こすのではないかと警戒し、あくまで経営参画を一部認める程度に留めた。かくして国と自治体共同出資(*2)の「大東京高速度交通公団」が1941年7月4日に創設された。

 

Ⅲ:また関東各私鉄は都心部への乗り入れに意欲的であったが、公営主義によりあくまで地下鉄への直通を介してすべしという暗黙のルールがあった。そのため広域高速鉄道網準備室が公団内に設置された。経営権争いで相談役の閑職に追いやられていた早川もここに入室し、主に浅草線方面に力を入れこの時点で京急-大東京-京成線の直通網検討していた。五島は理事になれたものの、勝ち取った地下鉄を免許を譲渡してきた東京市一部勢力にしてやれ、国策(*3)にも逆らえず手渡すという悪夢を見ることとなった。五島も東横線の都心乗り入れ計画に絡め主に日比谷線方面の計画を担当したと言われている。

 

(*1)30年後には高速鉄道線の路線を東京市に譲渡するという条件

(*2)このほかに各私鉄は強制的に公団債という形で出資させられた

(*3)当時、地下鉄以外でも経営戦争は起き、サービスが低下したため国は陸上交通事業調整法で交通統合を計画した