早川徳次氏胸像と解説パネル(地下鉄博物館)
早川徳次氏胸像と解説パネル(地下鉄博物館)

Ⅰ:政治家を志しながらも紆余曲折の末、鉄道会社経営の才覚を現した早川徳次は1914年に国際情勢視察でロンドンへ向かう事となった。早川はロンドンでクモの巣のように張り巡らされた地下鉄に出会い、帝都東京にも地下高速電車の必要性を痛感した。同時期の東京市電は営業係数(*1)34.3となるも1時間待ちなど輸送力が大幅に欠如していた。

 

Ⅱ:帰国後早川は必要性を訴えるも受け入れられず、公営は諦め私設地下鉄の建設を決め、資金を搔き集め、1919年11月17日に鉄道院から高輪から浅草と車坂から南千住の2路線の免許が交付された。その後これに続こうと武蔵野鉄道・東京高速鉄道など何社も地下鉄建設に動き出した。

 

Ⅲ:一気に地下鉄整備が進む機運を見せた矢先、1923年に関東大震災が、経済においては好況の反動による不況と、地下鉄整備の機運は静まり早川率いる地下鉄道以外免許が取り消しになった。東京市はこれを好機とし4路線の免許を獲得するも復興費用で自身も地下鉄整備に入れる状態ではなかった。そこで東京市は大倉財閥系の東京高速鉄道に免許を譲渡、大倉財閥は東京地下鉄道の建設も請け負ったこともあり自ら地下鉄事業に乗り出すことにより独占を目論んでいたのである。

 

Ⅳ:東京高速鉄道はそれでも資金難であり、東京横浜電鉄の五島慶太を発起人に加えることでようやく建設の見通しが立った。譲渡された免許の路線は渋谷を起点とし新橋東京万世橋を経由し駒込に至る路線であったが、新橋から当時の都心・繁華街を走る東京地下鉄道線への直通を目指した。所謂既存ストックの活用である。しかし地下鉄道側は新橋以南は品川方面へ至り京浜電鉄(現:京急)に直通する予定であった。